top 


  2回目・渡邊博の軌跡展 

PARTⅠ 2013.3.3(水)~3.15(金)

PARTⅡ 2013.3.18(月)~3.27(水)

会場 セッションハウス (東京都新宿区新宿矢来町158)

《コンセプト》
 
  人間の内奥に巣食う煩悩(衆生の心身を煩わし、悩ませる一切の妄念)の呪縛から、逃れることが出来ない人間の弱さの諸々の形を現すことによって、人間の本質を掴みたいと願い、風景画から人物画に移行するきっかけを、今昔物語集や往生要集に求めた。 
この人物画の煩悩の延長線上に今の私の抽象の形象がある。




裏返された光ー渡邊博の抽象絵画     大倉 宏(美術評論家) 
 
  推薦文はこちら   


含羞の人、渡邊博さん      豊田紀雄(現代制作舎) 
 
  昨年の夏、新宿のギャラリー絵夢でのグループ展「夏の夢・新宿の詩」では、渡邊博さんは”韜晦の人” という大作をひっさげて、登場した。千葉の山奥のアトリエから大事にかかえてきた孤高の詩画人は、会場に着くとおもむろにその包みを開き、ひとりほくそ笑む。その画家としての自信と絵描き仲間たちに久しぶりに会えた喜びが身体からにじみ出る。私たちはその対策を会場に展示する。真正面の中央だ。飾りつけの誰もが作業を止め、”韜晦の人”に見入る。やわらかくあたたかい何層にも重なった色彩がじっくりと心に沁みる。会場にいた全員の嘆息がきこえるようだ。それからT十日間、企画を担当した私は毎日その絵の前の椅子に座り、小さな巨人の絵を眺める至福の時間を持つことが出来た。
そしてこの三月、セッションハウスの伊藤孝氏の好意により三週間にわたって渡邊博さんの作品を展示することになった。前期、後期の二部に分け、最新作と昔の作品を観ることの倖わせを味わえることはなんともうれしいことだ。

 

渡邊仙人      堂免 修(画家) 
 
  渡邊博さんとの出会いは2008年、滋賀のギャラリー唐橋でのグループ展でした。当時はちょっと偏屈、だいぶ我が儘、薄くなった落武者髪と無精髭は自ら意識したトレードマーク、奥目がちな真っ直ぐな目、どちらかと言えば苦手なタイプの仙人ようなおっさんでした。それがどこでのり違えたのか、今では週に数回のメールの遣り取りをする付き合いになってしまったのは、彼の得体の知れない魅力、もしくはこれまでの人生で習得された魔力のせいでしょうか。 この七十過ぎのおっさんが好んで身に付ける横縞模様のTシャツと靴下は、人から可愛いと思わせる呪文のようです。
そして彼の経験を伴った知恵と知識は、僕に沢山のことを教えてくれます。仲間達のオープニングパーテイ後は山谷の三畳間の安宿に泊まることで遠方に住む僕等には身体もお金も楽なこと、その翌朝に隣の食堂でカウンターに並んだ焼き魚やポテトサラダ、目玉焼きで焼酎を吞む不良的幸福、吞みながらカサコソと喋る絵画、画家に対する言葉は、常識からの逸脱に満ちていますが妙に納得させられます。彼の作品は、そこいらに転がっている知識や感性には見向きもせず、経験によって身に付けた知識と経験によって磨かれた感性を持って授かった己の生命の核に迫っていきます。暫く作品の前に佇んでいると、自己と戦っている背中が現れゆっくりと振り返るように、奥行きの深い生命観、渡邊宇宙が出現します。「だからなんなんだ!」と彼に怒鳴られそうですが、そのように見えるのは僕の勝手でしょう。そういえば、そんなふうに怒鳴られたことがあります。「アナタがオレに説教するなんてナンセンスだ。アナタとオレの共通項は何もないんだから。アナタとオレは異質なんだよ。物の根源を求め、最近の絵は月面のクレーターのように見えるが、オレは人の心(内面)を描こうとしている。もう40年ものめり込んでいるんだから、今更、人の意見なんぞに貸す耳はもたない。好きなものを好きなように描く。」
説教をしたつもりはなかったのですが、パシリと正論を叩かれました。「図録を作るから何かを書け」と言われましたが、文章も達人、13も歳上の彼に対して何を書けっていうんだろう?こんな駄文にまた、パシリときそうで恐ろしい。




ー回想ー     渡邊 博 
 
◆上京前後(1964年) 
 
  郷里新潟でサラリーマン生活を7年続けた内の後半は、あまりの給料の低さに、六法全書の勉強から始めて、労働組合を作ってしまった。書記長に納まって活動をしてきたが、どうも人に使われるのは性に合わない。サラリーマンを辞める1年ほど前から地元の絵の先生について習い始め、絵で生きようと決心。運転免許証があれば何とか成るだろうと実に安易な考えで上京した。

田町の第一京浜・札ノ辻の角にあった小さな運送屋に住み込みの運転手となる。8畳ぐらいの部屋に、夜は隙間のないほど布団が敷かれ、オレの寝ているすぐ脇で、連日、若い運転手たちの花札がご開帳となる。我慢にも限度があり、無口なオレが連中に向かって五月蠅い!と怒鳴る。追い込まれると自制が利かない自分がそこにいた。オレは28歳、連中の中には中学校を出て間もない純情な八丈島出身者もいた。運送屋から運送屋へ渡り歩く流れ者相手に、そんな態度を示したものだから、反撃する前にビックリしたのかもしれない。その内、反論など罵声を浴びることもなく、昼間の慣れない作業に疲れて寝てしまった。数日してから見るに見かねて別の部屋をあてがわれたが、窓の下にあるベッドでは、花札に加わらない男同士が嬌声を上げ、何やら妖しい雰囲気になっていて、この二人の先はどうなるのか理解するだけの知識はオレにはなかった。この部屋には絵を描くスペースがあり、べニアに仏像を描いた。これが上京以来、初めての制作であった。

年末になって忘年会があり、社長や賄いのおばさんをはじめ、従業員全員の顔が揃い、酔いが回った頃、賄いの食事が不味いと賄いのおばさんを食って掛かった奴がいた。文句を言う奴と、これを弁護する奴とが、所謂チンピラ同士のケンカが始まり、表へ出ろ!と叫ぶ声が響いて、座が凍りつく。東京の恐ろしさを実感した最初の場面だった。

こういう環境を心配した同郷の賄いのおばさんの紹介で、中野区の警備員採用の面接を受け、合格して小学校の警備員となる。夕方出勤して、翌朝、先生方や給食のおばさんたちが見えたころ 
勤務明けとなる。その日は一日休み。

給食の残り物をボールにイッパイに入れ、草履の音をペタペタさせながら近づいてくる、猫背で怖そうな一人しかいない男性の給食員の顔が頼もしく見えたものだ。この給食を夕と朝の二回に分けて食べた。とてもいい職場だった。深夜の見回りを終えて仮眠を取り、翌朝5時に見回りを開始する。
ある日、朝の見回りで、廊下から職員室の中を覗くと、運動場側の窓ガラスが割られ、先生方の抽斗が全部引き出されていて、中の書類が散乱していた。この頃、中野区の小学校には盗難が頻発していて、オレの勤務日に遭遇してしまった。頭の血が引き、体がワナワナと震えた。犯人と顔を合わせたらどうなっていたか。コワイコワイ。


◆第1回個展(1969年 紀伊国屋画廊) 
 
  オレが社会を呪うて生きるといっていた知人のエカキの言葉を反芻しながら、1年ばかり東北・北海道を放浪して、東上線の鶴瀬のアパートに落ち着いてから、1回目の個展を、新宿・紀伊国屋画廊で開いた。

画廊の控室にいると、突然、若い男が入ってきて開口一番「どうやって食っているんですか?」と問われる。それは社会の常識とか会話の手順を一切省いた、いかにも絵に取り憑かれた新進気鋭のエカキのように見えて魅力的だった。年齢はたしか10代の最後だったように思う。

この早熟な宇野政孝(後に改名して、宇野マサシとなる)は、胸ポケットに筆記用具を挿し、京都を旅して傑作「おばぁちゃんの35日」を引っ提げて、現代画廊で個展をやる。夥しいスケッチブックの絵は、すぐに死ねば夭折の画家の誕生となる要素を秘めていたが、長生きして夭折の名誉は吹っ飛んだ。

宇野政孝を通じて横田海を知り、破天荒の二人と親交を深めていった若い頃の気概は今も生き生きと甦る。
あれから40年を経たお互いの現在の絵はどうなったか、甚だ興味深い提起だ。 


◆アトリエ(1977~1996) 
 

 
 
  妻子を川越市新河岸に住まわせ、生活の資を得るために勤めていた職場の近くの、この六畳一間のアパートにアトリエとして住んだ。

画友に妻の稼ぎで絵を描いている、所謂、髪結いの亭主を何人も知っているが、それは妻をその気にさせる才能がオトコにある場合だけだ。オレにはその口説き文句がいえる才能がなかったので、自分で稼いで絵を描くしかなかった。

新宿区上落合の戦後まもなく建ったマンション形式の木造アパートで、各部屋にそれぞれ所有者がいて、同じ六畳でも家賃が異なっていた。1階の真ん中に土間の廊下があり左右に4部屋ずつあって、風呂なし、トイレ共同。総2階の1階に住んでいた。トイレ掃除は当番が決まっていて順番にやっていたが、オレは独り者のオトコだからという理由からか免除してくれた。そういう心優しさが生きている下町風情が残る密集地帯であった。


◆夫婦喧嘩 
 
  オレの向かいの部屋には2人ったか3人だったか、一番下はまだ幼稚園児だった様な気がする子供たちが入っていて、両親はオレの隣りの部屋に入っている家族(部屋の一つは自分たちの持ち物でもう一つは借用)がいて、夜遅くダンナが酔って帰ると日課のように夫婦喧嘩が始まる。

酔ってストレスの発散を妻に向けるこのダンナの気持ちは良く分かる。いや分からない。
ちょっとベランメイ調で能弁なダンナと、ダンナの前では借りてきた猫のような大人しい妻。手を上げるダンナと部屋から逃げ出さずにちょっと口答えしながらでっかい悲鳴を上げる妻との合戦は、そのまた隣りのちょっと怖そうなダンナが仲裁に入ろうとも一向に治まる気配はなく続く。いずれにしても寝静まった深夜のドラマは切実だ。よくも夫婦喧嘩のネタが続くものだなーとつい感心しちゃう。病膏盲に入って手が付けられない。 
危険を感じ取っているオレはただ納まるのをじっと待つだけの意気地なさだった。
この夫婦には、入居したときに買った大きな盥がまだ残っており、盥の裏には戦後間もない頃に建てたアパートと同時期に購入した年月日が記入されていた。この記念すべき盥が入り口のドアの脇にたてかけてある風景は、のどかなようでいて物持ちがいいだけではなく、生活振りの一端が窺えた。


◆猫の蚤 
 
  或る時、オレの真上の部屋に東南アジア風の若いカップルが越してきた。部屋には猫を飼っていてオレが床を敷くと白いシートの上に小さく細身の猫の蚤がポトリポトリと落っこちてきて 、見る見るうちに蚤親族の団欒の宴が始まる。困り果てて、天井の板の継ぎ目や節穴に、新聞紙を細く切って目張りをして防いだが(一枚目の写真)、完璧にはいかなかった。当人たちに文句を言ったり、管理人にも善処を頼むが、彼らが引っ越すまでの暫くの間は安穏として寝ておれなかった。
夫婦喧嘩の騒動に耐えて、蚤の襲来にも耐える。茨の道だ、人生は。


◆帰路 
 
  神田神保町で買い込んだ本を両手に持って、夕方、アパート近くまで来たところで巡回中の二人のお巡りに出くわす。無精ひげに長髪、どう見ても立派とは縁遠い装いのオレを見て、不審に思わない方がおかしいくらいの格好だったから仕方がないが、なかなか束縛の手を解いてくれない。丁度、そこにアパートの住人が通りかかり、その人に”コンバンハ”と声をかけると、なんとことはない、あっさり無罪放免となる。
風体で判断するお巡りの浅見に腹が立った。
尋問を受けたその場所には大きな銀杏の木があって、秋になると臭い銀杏の実の雨が降る。銀杏を見ると不甲斐ないオレとお巡りへの怒りが込み上げてきて、青春の1ページだなーと思う。それ以来、お巡りには不信感が付き纏い、心臓と脳が緊張する習慣が備わった。これは自己防衛というものだ。 


◆緑川俊一の絵
 
  前掲の上の写真には緑川俊一の「顔」が壁の上部にかかっている。(その一番下には中尾英文の絵もある)
緑川がニューヨークのブロンクス(クイーンの方だったようなな気がしてきた)に妻子を連れて行き、その時に描いた人物画で、帰朝一番ギャラリー川船で個展をやった。衝撃的な絵で彼がこのまま死ねば、もう一人の夭折の画家の冠をほしいままにする絵であった。

どうしても1枚欲しくなり、展覧会が終わってしまったがギャラリー川船へ行き見せてくれと頼んだが、今この人(次の人)の展覧会をやっているので見せられないと言う。ケチと思ったが冴えない風体のエカキがまさか絵を買うjとは思えない当然の仕打ちなのかもしれないが憤懣やるかたなく、すでに緑川の絵を買って持っていた横田海にその経緯を話すと「俺が買った絵を譲ってもいい」という。絵柄をどうのこうのと言ってる場合じゃなく、何が何でも絵が欲しくて横田から買うことにした。ギャラリー川船は自ら上客を(?)を失うことになった。商売が下手だなー。人を姿恰好で判断しちゃいけない。オレは嬉しい筈なのに横田がこんなに早く絵を手放す理由が分からんと疑問を抱いたが、ことここに及んだらそんなことはどうでもよかった。
80,000円。横田が買った値段そのままの値段でオレが買った。一番の親友の筈なのに、親友のよしみで安くするとかの気遣いは一切ない。よしんば、利潤を上乗せして売ろうとしたら、それは、即、絶交だ。
親友を長く維持するのはそれ相当の努力がいるものだ。今は、別の理由で横田との親友の情は薄まって、深入りしない間柄になっている。薄情なもんだオレは。
緑川俊一はギャラリー銀座汲美でもこの特異な絵で個展をやった。オレが買った絵の数倍のオリジナルがギラギラする、頂点を極めた絵だ。


◆今のアトリエ 
 
 現在のアトリエで制作中のオレ 
   
  <夢を叶え、房総に終の棲家を構える>
郷里から上京して間もない頃、画友と二人で房総半島の突端をスケッチしに行ったことがある。風光明媚なこんなところに、将来、終の棲家(アトリエ)を構えたらどんなにいいかと思った。この夢みたいな願望を実現させて越して来た、オレが45歳になったときだ。とはいっても妻子だけのの引っ越しで、一家の生活の資を得るためにオレは暫くの間引き続き新宿のアトリエ住まいを続けていた。

<頭のいい不動産屋の論理>
地元の不動産屋「の紹介で、田圃を潰し資材置き場にしていた土地を買い家を建てた。 ここには村(?)を二分する様に川が流れていて、西北に裏山を背負い東南が開けている川向こうの住民は、一日中陽当たりがいいので安穏として暮らすから短命だといい、東南に山を背負い陽当たりが悪くて反発心が芽生え、陽当たりのいい住民の家並みを恨めしく眺めるこの資材置き場の住むと長生きするという。だからこちらを買った方がいいと頭のいい不動産屋は薦める。
この素晴らしいへんてこな論理が気に入ったのではなく、向かい側の土地の10分の1の値段で買えたから、ここに決めたに過ぎない。
冬場になると太陽光を遮る裏山に悶々として、この歳まで生き延びてきた。
あの不動産屋に感謝すべきかどうか未だに分からない。
ウチから海まで歩いて30分。越してきた当初は海水浴が出来る喜びでウキウキしていたが、段々それが疎くなって今では海を見ようともしない。地元の人の話では地元の人は泳がないという。オレも地元の一員になったのだろう。
あんなに夢中になっていた釣りも今はやらない。

<就眠スタイル>
夕食は5時30分、夕食後、洋画の映画専門のIMAGIKA BSで録画した映画を観て、7時45分寝支度に入って8時には床につく。電子書籍で2・3ページを読んでいる内に、ポトリと電子書籍を落として寝てしまう。目覚めは翌朝2時30分から3時。このパターンが定着して久しい。

<車道にキス>
3時15分頃、懐中電灯を持ち、雨の日は傘をさして30分くらいウォーキングをやっているが、最初の頃、歩道と車道の区別のある大通りの方まで足を延ばしていたが、或る時、歩道から足を踏み外し、段差になっている車道へ顔からつんのめって、車道にキスをした。鼻と顔が酷い目に遭う。それ以来、大通りを避け、近場の道路を3往復することにした。

<新聞配達の嫌な奴>
その道路には新聞配達のバイクが3・4台行き交っていて、そのうちの一人はビュービューとバイクを飛ばして通るから若者と思えるが、オレの脇を通る時に突然奇声を上げたり、オレに急接近したりしてオレにじゃれ付く。いやオレを威嚇する。暗いから怖い。今まで事故はないが嫌な奴だ。新聞配達のバイクに出くわさない様にするにはどうしたらいいか。絵の制作に悩むなら兎も角、こんなことで悩んでいるから頭髪が禿頭になる訳だ。

<田圃に落ちる>
この道路にはもう一つ嫌なことがあった。道路に面して常夜灯に浮かんだ旅館と併設された料理屋がほんのり見え、その前を懐中電灯頼りに通りかかった時、普段いない筈の犬が突然オレに飛び掛かってきた。それを避けようとして道路下1mの田圃にコロコロと転げ落ちた。今度は顔ではなく頸や肘に掠り傷を負ったようだが、はっきりと記憶にないから大したことはなかったようだ。

<田舎暮らしの効用?>
この房総半島に住むオレを羨んで、いい環境だからいい絵が描けるでしょうと言う人がいるが、そんなことは全く関係ない。風景画を描くわけでもないし、自己の内面を描き表わそうと悶々としているので、サツマイモの出来がいいだろうが、ブロッコリーの葉が夜盗虫に食われようが、蚕豆の植える場所をどこにするか、食用の菜花(ナバナ)を植えようと思っている場所にはまだ雑草が茂っていて何時になるか見当がつかないが、絵の制作には何ら影響を及ぼさない。
ただ蒔いた種から芽を出す瞬間は収穫よりも得難い喜びで、絵に病んだ脳が嬉しがっているかもしれない。

<大音響のジャズ>
パソコンに接続して、サウンドを楽しむ小さなスピーカー(高音・中音・低音の3個)を最近買ってきて、ジャズを聴きながら絵の制作に励むのが一番の楽しみになっている。アトリエの壁に設置してある書棚(奥行き40cm、幅270cm)の本を取り出し、そこにこの3個のスピーカーを押し込んで、でかーいスピーカーボックスを作り上げた。これはなかなかのグッドアイデアで、オレの脳を天空に押し上げる効果は抜群だ。毎日舞い上がっている。
   




1991 「面をとりまく蝶たち」 F6 油彩 


1994 「お経」 P20 油彩 


1997 「厭離」 F20 油彩 


1999 「假我」 F40 油彩 


1998 「内在(青い曲線)」 P30 油彩 


1999 「生の表象」 F80 油彩 


2005 「黄人間」 47.2x23cm 油彩 



2005 「乗り越えたい自我」 P20 油彩 


2007 「肉体と精神の融合」 230x137.5cm 水彩 


2011 「集積」 S10 油彩  


211 「有為転変」 228x8cm  水彩


2011 「昇華の法則」 137x137cm 水彩 


2012 「冥冥の裡」 137x137cm 水彩 


2012 「韜晦の人」 126x126cm 水彩 


このページのトップへ